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ニーチェとBasel(バーゼル)
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ニーチェは1869年から1879年の10年間、バーゼル大学で教鞭をとっていました。ライプツィヒ大学での恩師であるリッチュル教授の推薦により、博士論文免除の上博士号を授与された上、24歳という異例の若さで古典文献学の員外教授の職に就いたのが1869年、翌年4月には正教授となりました。
1869年5月28日に就任講演「ホメロスの人格について(=論考「ホメロスと古典文献学」)」が行われたのを皮切りに、1870年1月18日の公開講演「ギリシアの楽劇
」、同2月1日の「ソクラテスと悲劇」と、ニーチェの初期の思想が展開されました。
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バーゼルの一般情報
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バーゼルはドイツ・フランス・スイスの三国が国境を接する都市です。古くから印刷・出版の盛んなところでした。(ちなみにわたしが訪れた2002年9月にはバーゼルで国際児童図書評議会世界大会が開かれており、美智子皇后がご出席になりスピーチをされたそうです。)
ドイツ国鉄駅Bad.Bf で降りてミットレレ橋(Mittlerebrücke)に向かう大通り沿いにメッセ会場"Mustermesse Basel"(写真左)が見えます。スイス最大の見本市が開かれる会場です。そしてライン川に架かるミットレレ橋(写真中央)からスイス国鉄駅SBB の間がバーゼルの中心地となります。
旧市街の中心には活気ある市場が開かれるMarktplatzがあり、その向かいに立つ市庁舎(Rathaus)(写真右)はフレスコ画に彩られた赤茶色の壁が印象的な建物です。
Münster(ミュンスター大聖堂)(写真左)には、エラスムスの墓碑銘が。オランダ出身、ルネサンスの人文主義者エラスムス(Erasmus,1465-1536)とバーゼルとの関係は深く、エラスムスは各地を遍歴した後、1914年から没するまでバーゼルに定住し、新約聖書のラテン語訳付原典の出版などを行いました。
バーゼル市立美術館(Kunstmuseum Basel)(写真右)には、モネ、ゴッホ、セザンヌら有名な画家の作品が数多く展示されています。HPでは収集品をチェックできます。ホルバイン(Hans Holbein der Jüngere)の「墓の中のキリスト (Der Leichnam
Christi im Grabe)」、シャガール(Marc Chagall)の「天使の墜落( La chute de l'ang)」などもおすすめ。中庭では、ロダンの「カレーの市民」--世界に12作あるうちのひとつ--が出迎えてくれますよ。
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Uni. Basel
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大学はバーゼル市内に点在しています。写真(右)はなかでも古くから残る大学施設。
大学図書館(写真中央・右)内には"Baseler Nietzsche-Archiv(バーゼルのニーチェ文書館)"があり、
ニーチェ関連資料が多数所蔵されています。(Sils購入の資料参照)
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時は下り・・・
1889年1月8日、錯乱したニーチェをトリノで発見したオーヴァーベックは、1月10日にニーチェをFriedmattにあるバーゼル大学の神経科クリニックPsychiatrische
Klinik der Uni.に連れていきます。
(このときのことは『ニーチェの病跡』p. 30-を参照のこと。また"Chronik in Bildern…"S. 737には、この1月10日の診断書の写真が載っています。この診断書の訳は『病跡』p. 32-にあります。)写真は現在の施設の看板です。HPに沿革が出ていましたのでリンクしておきます。
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6つの住居跡をたどる
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ニーチェは、バーゼルで少なくとも6度の転居をしています。
1世紀以上の時を経て、その住所を訪れてみました。
左下の写真はシュパレン門 (Spalentor)、 まわりにはバーゼル大学の施設もあります.
バーゼル大学に招聘が決まりバーゼルに転居したのは1869年4月19日のことでした。
最初に暮らしたのが住所:Spalenthorweg2の家です。
Spalent(h)orwegは文字通りシュパレン門から南南西に伸びているストリートで、現存しました。
さらにその2番地は門から見える程の近さのところに、今も存在したのでした。(右下の写真の建物。)
が、建物は新しく、何らかの痕跡を見つけることもできませんでした。(番地が当時のままの表示とは限りませんしね。)
Schützengraben47、通称“バウマンの洞窟”。ここはバーゼルにおけるニーチェの住居としては最も有名で、
写真がよく本に出ています。それによって当時も今も同じ建物であることがわかります。
また47は現在の番地で、ニーチェがいた当時は45番地であったことも確認されています。
ちなみにこの”バウマンの洞窟”のバウマンとはこの家の家主の名です。
ニーチェはここに1869年7月から1875年春までの約5年半下宿していました。
1870年からはバーゼルに神学の助教授としてやってきたフランツ・オーヴァーベックもここで暮らしています。
このときから(決して平坦であったわけではありませんが)二人の友情は終生変わらず続きました。
その後彼は、再び最初に住んだSpalenthorwegに居を移しました。
48番地は2番地よりもずっと南へ進んだところに現存しました。
この建物にはニーチェが住んでいたことを示す石板が付いています
(写真右下)。 石板に書かれているように、ニーチェは1875年夏から76年の冬学期まで、ここにエリーザベトとともに住んでいました。
1878年冬学期から1年間、休暇療養をとったのちバーゼルに帰ったニーチェが、
次に妹エリーザベトとともにすんだのがこの住所です。その頃の書簡にはこうあります。
「このような事情[体調不良]では、親切な妹の助けを借りざるを〔…〕えなくなった。
僕たちは昔の家の近くに住居を持っていて、夏季の休暇が済んだらそこに移る。」
(1875年6月26日カール・フォン・ゲルスドルフ宛書簡より)
ただし現在の当該番地の建物(写真右下の建物)はどう見ても新しい様式の大きなマンションで、詳細はわかりませんでした。
当時の地図が手に入れば・・・。
中心部から少し外れたところに大きな動物公園があり、そのすぐ近くに、Bachlettenstr.という通りは現存していました。
1878年6月からニーチェはこの住所に短期間、独りで住んでいたようです。
現在のこの住所を探し当てると、1階がパン屋さんでした。
(中へ入ってパンを買うついでに、ここにニーチェが住んでいたか聞いてみましたが、知らない、と言われました。)
建物にも表示らしきものは見当たらず。
[6] バーゼル郊外のビニンゲン村Binningen
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ニーチェは1878年冬にこの村へ転居してきます。そして翌79年に健康状態悪化のため
バーゼル大学を退職し、バーゼルを離れることになります。
よってここがバーゼルでの(わかっている限りでは)最後の住居であったと思われます。
写真は路面電車のBinningen駅。ここまできたのに残念ながら時間がなく、家の捜索には至らず。
・・・以上、2002年夏訪問・・・
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