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ニーチェとBonn(ボン)
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プフォルタ学院を卒業と同時にボン大学へ入学した1864年10月から、1865年8月までの約1年が、ニーチェのボン時代です。
ボンでは、ニーチェがSchumann夫妻の墓(写真右)を訪れたという記録も残っています。
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ボンの一般情報
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ボンは東西分裂中の西ドイツの首都でしたが、印象はのどかな大学街です。ベートーヴェン生誕の地としても知られています。
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写真(左):
Münsterplatzにあるベートーヴェン像
写真(右):
Beethoven-Haus |
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Uni. Bonn
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ボン大学の校舎は、当時と変わらない姿を残しています。
ニーチェは入学当初神学と古典文献学を学んでいます。また「フランコニア」という学生団体(Bonner Burschenschaft Frankonia)で活動し学生生活を謳歌していましたが、1年間でボン大学を去り、ライプツィヒ大学に編入します。若き日のニーチェについては、西尾幹二『ニーチェ』第一部/第二部(ちくま学芸文庫、筑摩書房、共に2001年)に詳しいので参考にしてください。
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ニーチェとKöln(ケルン)
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ニーチェは(ボン時代にあたる)1865年の6月に、音楽祭の合唱団の一員としてケルンで4日間を過ごしています。これは書簡で確認できる情報です。しかしながらケルンといえば、ニーチェが1865年にケルンの売春宿に行き、そこで梅毒をうつされたのではないかという話の方が有名です。この話はP.Deussenが「ニーチェから直接聞いた」話だそうですが、その真偽は定かではありません。それにもかかわらずこの話はニーチェの逸話として定着しているふしがあり、ニーチェとルーとレーを描いた映画『善悪の彼岸』でも、娼家でピアノをならすシーンがあります。
(※Deussen(ドイッセン)は、プフォルタ校でできた2人の友人のうちの一人。彼もボン大学の学生でした。)
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ケルンの一般情報
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ケルンはボンに隣接する都市です。ケルンはボンから電車で20分かからない距離にある都市で、有名な大聖堂(Dom)があります。
そして「ケルシュ」がおいしい。
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大聖堂とドーム・ホテル
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大聖堂のすぐ横にドーム・ホテルが現存しています。
ニーチェは音楽祭のためケルンに訪れたとき、このドーム・ホテルのベンチで寝たといいます。
※2008年に行ったときには、Dom Hotelはスターウッド系列ホテルになっていました。
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・・・以上、2002, 2005, 2008, 2009, 2010年夏訪問・・・
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